淡路島移住5年目の冬のはじまり。メメント・モリ/藤原新也

最近、私のまわりで連続で3人の方が近々インドに行くんです(内一人はすでにインドにおられます)と、伝えてくれました。

あなたのバックパックの、あるいはスーツケースの中に入って私も行きたいと、いつも言ってしまいます。

インド、行きたいなあって思った時に、手に取る本があって。

その本を手に取ると、娘とのやりとりを思い出しだします。

サロンを始めて間もない頃でしょうか。

カウンセリングコーナーに、小さな本コーナーをつくりました。

私、本が好きで、特にヨガやマッサージ、体と心関係の本、アロマテラピーの本は、片っ端から読んでます。

そんな中から、選りすぐりの本を、

サロンに来て下さった方がちょっと手にとって、興味を持ちそうな、

あるいは、へーってなりそうな本を並べてみてます。

すると、当時小学生だった娘が興味深々で見ていたので、

一緒に見よっかと、

藤原新也さんの”メメント・モリ”

を、手にしました。

インド好きならご存知の方もいらっしゃると思いますが、すごい本です。

すごい写真と詩です。

娘に写真を見せながら、詩を読んでいると、

娘は私にしがみつき、写真から目を背けはじめました。

ガンジス川で焼かれる死体が怖いと。

私も同じような風景を何度も何度も、ガンジス川のほとりで見ました。

そこには、もちろん、娘くらいの子どももたくさん走り回っていて、

あの子たちにとっては、

死体が焼かれるのは日常。

けれど、私の娘にとっては、死は恐ろしく、直視できないもの。

きっと、昔は日本でも、どこでも、ガンジス川とそんなに変わらなかったと思います。

身近に衰弱していく家族の姿や、魚や動物たちが息をひきとる瞬間、

ありとあらゆる死が日常にあったのだと思う。

身近に死を見ることで、

自分を、

他人を、

生きる物全てを、

大切にする心が、自然に育ったのではないかと思うのです。

それが、パッケージに入ってキレイにカットされた肉片のように、

私達の今の生活は、死からあまりに遠ざかってしまった。

結果、人の痛みや、動物の痛み、命を頂いていることや、

自分がいつか確実に死ぬということを、忘れてしまって、

平気で人を傷つけたり、

食べ物を無駄にしたり、

本当に自分のやりたいことではない時間ばかりを過ごしたり、

してしまうのでは、ないでしょうか。

私は、娘に言いました。

「世の中に、絶対は存在しないけど、

唯一の絶対、それは、生き物はいつか死ぬということだよ。

ママも、あなたも、いつか、必ず死にます。

だから、今から、死ぬまでの時間って決まってるの。

じゃあ、笑ってる時間が多いほうがいいね。

だから、笑ってる時間が多くなるように、一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きようね」と。

それでも娘は、なぜ私にこの本を見せたのかと怒っていました。

死は生のアリバイである

メメント・モリ

死を想え

藤原新也

それから何年かして、以前にも書いたように、この言葉のあとには、続きがあることを知りました。(こちらに書いてます→コロナ、もう嫌ですよね

今回、この記事を書こうとして、中学生になった娘にもう一度、この本、今なら見られる?

とページを開きましたが、

恐る恐るページを覗き込み、目を背け、

やはり無理だと言いました。

そんな恐ろしい写真が載ってるわけではないのですが、

藤原さんの写真や、言葉の迫力が彼女には強すぎるのかな?

と、思うことにしました。

あまりに死を遠ざけてしまった日本にいると、

なんだか”生きる”ということがぼんやりしてしまって、

私はインドに行きたくなるのかもしれない、なんて思います。

それでもやはり、自然のそばは、ちゃんと生と死のサイクルを感じることができます。

青々と茂っていた山は、今、紅葉し、すでに葉が枯れてしまった木もあります。

稲は刈り取られ、私の肉の一部となり、

耕された土には、玉ねぎの植え付けが始まっています。

だから私は、自然のそばで暮したかったのかもしれない。

移住5年目、

街中に鳴り響くクリスマスソングではなく、

きらびやかなイルミネーションでもない、

冬のはじまりを感じています。

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