最近、私のまわりで連続で3人の方が近々インドに行くんです(内一人はすでにインドにおられます)と、伝えてくれました。
あなたのバックパックの、あるいはスーツケースの中に入って私も行きたいと、いつも言ってしまいます。
インド、行きたいなあって思った時に、手に取る本があって。
その本を手に取ると、娘とのやりとりを思い出しだします。
サロンを始めて間もない頃でしょうか。
カウンセリングコーナーに、小さな本コーナーをつくりました。
私、本が好きで、特にヨガやマッサージ、体と心関係の本、アロマテラピーの本は、片っ端から読んでます。
そんな中から、選りすぐりの本を、
サロンに来て下さった方がちょっと手にとって、興味を持ちそうな、
あるいは、へーってなりそうな本を並べてみてます。
すると、当時小学生だった娘が興味深々で見ていたので、
一緒に見よっかと、
藤原新也さんの”メメント・モリ”
を、手にしました。
インド好きならご存知の方もいらっしゃると思いますが、すごい本です。
すごい写真と詩です。
娘に写真を見せながら、詩を読んでいると、
娘は私にしがみつき、写真から目を背けはじめました。
ガンジス川で焼かれる死体が怖いと。
私も同じような風景を何度も何度も、ガンジス川のほとりで見ました。
そこには、もちろん、娘くらいの子どももたくさん走り回っていて、
あの子たちにとっては、
死体が焼かれるのは日常。
けれど、私の娘にとっては、死は恐ろしく、直視できないもの。
きっと、昔は日本でも、どこでも、ガンジス川とそんなに変わらなかったと思います。
身近に衰弱していく家族の姿や、魚や動物たちが息をひきとる瞬間、
ありとあらゆる死が日常にあったのだと思う。
身近に死を見ることで、
自分を、
他人を、
生きる物全てを、
大切にする心が、自然に育ったのではないかと思うのです。
それが、パッケージに入ってキレイにカットされた肉片のように、
私達の今の生活は、死からあまりに遠ざかってしまった。
結果、人の痛みや、動物の痛み、命を頂いていることや、
自分がいつか確実に死ぬということを、忘れてしまって、
平気で人を傷つけたり、
食べ物を無駄にしたり、
本当に自分のやりたいことではない時間ばかりを過ごしたり、
してしまうのでは、ないでしょうか。
私は、娘に言いました。
「世の中に、絶対は存在しないけど、
唯一の絶対、それは、生き物はいつか死ぬということだよ。
ママも、あなたも、いつか、必ず死にます。
だから、今から、死ぬまでの時間って決まってるの。
じゃあ、笑ってる時間が多いほうがいいね。
だから、笑ってる時間が多くなるように、一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きようね」と。
それでも娘は、なぜ私にこの本を見せたのかと怒っていました。
死は生のアリバイである
メメント・モリ
死を想え
藤原新也
それから何年かして、以前にも書いたように、この言葉のあとには、続きがあることを知りました。(こちらに書いてます→コロナ、もう嫌ですよね)
今回、この記事を書こうとして、中学生になった娘にもう一度、この本、今なら見られる?
とページを開きましたが、
恐る恐るページを覗き込み、目を背け、
やはり無理だと言いました。
そんな恐ろしい写真が載ってるわけではないのですが、
藤原さんの写真や、言葉の迫力が彼女には強すぎるのかな?
と、思うことにしました。
あまりに死を遠ざけてしまった日本にいると、
なんだか”生きる”ということがぼんやりしてしまって、
私はインドに行きたくなるのかもしれない、なんて思います。
それでもやはり、自然のそばは、ちゃんと生と死のサイクルを感じることができます。
青々と茂っていた山は、今、紅葉し、すでに葉が枯れてしまった木もあります。
稲は刈り取られ、私の肉の一部となり、
耕された土には、玉ねぎの植え付けが始まっています。
だから私は、自然のそばで暮したかったのかもしれない。
移住5年目、
街中に鳴り響くクリスマスソングではなく、
きらびやかなイルミネーションでもない、
冬のはじまりを感じています。